退職技術者による製造ノウハウ持出しと営業秘密侵害への対応
輸出安全管理体制の構築【相談内容】
当社は、精密部品を製造するメーカーです。先日、長年にわたり開発部門の中心メンバーとして勤務していた技術者が、「実家の家業を継ぐ」と説明して退職しました。ところが数か月後、その元従業員が実際には中国の競合メーカーに転職し、高待遇で迎えられているらしいことが分かりました。
不審に思い、社内のアクセスログや端末利用履歴を確認したところ、退職直前に、当社の核心的な製造ノウハウに関する大量のデータが、私用のUSBメモリにダウンロードされていた形跡が見つかりました。
当社としては、これは単なる退職トラブルではなく、明らかな技術情報の持出し、すなわち技術窃取だと考えています。この元従業員や、転職先である中国企業に対して、法的措置を取り、当社技術の使用をやめさせることはできるのでしょうか。
【弁護士からの回答】
本件は、不正競争防止法上の「営業秘密」の不正取得・使用・開示が問題となる典型的な事案です。退職直前に、会社の核心的な製造ノウハウを私用USBメモリに大量保存していたのであれば、民事上の差止請求・損害賠償請求に加え、刑事告訴も検討すべき重大なケースです。
ただし、法的措置を取れるかどうか、また実際に勝てるかどうかは、持ち出された情報が不正競争防止法上の「営業秘密」に該当するかにかかっています。経済産業省は、営業秘密とは不正競争防止法上、「有用性」「秘密管理性」「非公知性」の3要件を満たす情報であり、企業が秘密情報を不正に持ち出された場合に民事上・刑事上の措置を取るためには、その情報が同法上の「営業秘密」として管理されていることが必要であると説明しています。
したがって、まず行うべきは、ログや退職経緯の確認と並行して、持ち出された製造ノウハウが営業秘密として保護される状態にあったかを精査することです。
目次
1 営業秘密として保護されるための3要件
不正競争防止法上、営業秘密として保護されるには、次の3つの要件をすべて満たす必要があります。
第一に、秘密管理性です。これは、その情報が客観的に秘密として管理されていたことを意味します。単に経営者が「これは重要情報だ」と考えているだけでは足りません。従業員が、その情報について「会社が秘密として管理している情報である」と認識できる状態にしておく必要があります。
典型的には、アクセス権限を開発部門や特定担当者に限定している、ファイルサーバーにID・パスワード管理をしている、フォルダ名やファイル名に「社外秘」「Confidential」等の表示がある、秘密情報管理規程がある、入社時・退職時に秘密保持誓約書を取得している、アクセスログを取得している、といった事情が重要になります。経済産業省の営業秘密管理指針も、不正競争防止法による保護を受けるために必要となる最低限の対策を示すものとされています。
第二に、有用性です。持ち出された情報が、事業活動に有用な技術上または営業上の情報であることが必要です。精密部品の製造条件、加工手順、品質管理データ、歩留まり改善ノウハウ、試験結果、失敗データ、材料選定情報などは、競合他社にとって価値があり、通常は有用性が認められやすい情報です。
第三に、非公知性です。その情報が公然と知られておらず、一般に容易に入手できないことが必要です。たとえば、公開特許公報、論文、カタログ、展示会資料、インターネット上の公開情報から容易に分かる内容であれば、営業秘密としての保護は難しくなります。他方で、社内の試行錯誤によって得られた加工条件や量産ノウハウなど、外部から容易に知ることができない情報であれば、非公知性を満たす可能性があります。
2 最も争点になりやすいのは「秘密管理性」
本件で特に重要なのは、秘密管理性です。
技術情報そのものが高度で、競争上重要であっても、社内で誰でもアクセスできる共有フォルダに保存されていた、USBへのコピーが自由だった、ファイルに秘密表示がなかった、秘密保持規程が周知されていなかった、退職時に秘密保持義務を確認していなかった、という状態であれば、裁判で「会社はその情報を秘密として管理していなかった」と判断されるリスクがあります。
一方で、開発部門の限られたメンバーしかアクセスできない領域に保存されていた、アクセスログが取得されていた、私用USBの使用が禁止されていた、秘密情報管理規程や就業規則で技術情報の持出しが禁止されていた、退職者から秘密保持誓約書を取得していた、という事情があれば、秘密管理性を基礎づける有力な事情になります。
近時の裁判例でも、秘密管理性の判断では、社内規程、入退社時の誓約書、従業員への周知、研修、アクセス制限、パスワード管理などが総合的に考慮されています。たとえば、営業秘密該当性が争われた事案では、文書管理規程、秘密保持・競業避止に関する規程、入社時・退職時の誓約書、従業員への周知、共有フォルダへのアクセス制限、パスワード管理などの事情から、秘密管理性が肯定されたと紹介されています。
3 元従業員に対して取り得る民事上の請求
持ち出された情報が営業秘密に該当し、元従業員が不正に取得・使用・開示したといえる場合、会社は元従業員に対して、差止請求や損害賠償請求を行うことができます。
差止請求では、当該製造ノウハウの使用停止、転職先への開示停止、データの削除・廃棄、複製物の廃棄などを求めます。営業秘密がデータで保存されている場合には、そのデータや記録媒体の廃棄も重要な請求対象になります。不正競争防止法上、営業秘密の使用差止めや、データの廃棄を求めることが可能であると解説されています。
損害賠償請求では、技術流出による売上減少、価格下落、開発投資の毀損、競争上の優位性喪失などを主張します。ただし、損害額の立証は容易ではありません。そのため、民事訴訟を見据える場合には、持ち出されたデータの内容、元従業員の転職先での職務内容、競合製品の発売時期、性能の類似性、価格・取引先の変化などを継続的に証拠化する必要があります。
また、元従業員との間で退職時誓約書や秘密保持契約を締結している場合には、不正競争防止法に基づく請求に加え、契約違反に基づく損害賠償請求も検討できます。
4 刑事告訴を検討すべき場面
本件のように、退職直前に私用USBメモリへ大量の核心的技術データを保存し、その後、競合メーカーに転職している場合、刑事告訴も現実的な選択肢になります。
営業秘密の不正取得・使用・開示は、不正競争防止法上、刑事罰の対象になり得ます。営業秘密の不正取得等は、単なる社内ルール違反にとどまらず、一定の場合には犯罪に該当し、刑事罰や損害賠償の対象となると解説されています。また、営業秘密侵害罪について、刑事告訴は「不正競争行為を許さない」という企業の強い姿勢を示し、社内の再発防止にもつながる対応として位置づけられます。
刑事告訴を検討する場合には、初動が非常に重要です。元従業員のPC、貸与端末、メール、クラウド利用履歴、USB接続ログ、ダウンロード履歴、退職時面談記録、入退社時の誓約書、就業規則、秘密情報管理規程などを保全してください。社内調査の過程で証拠を上書き・消去してしまうと、後の刑事手続や民事訴訟で不利になります。
5 中国企業に対して使用を止めさせられるか
転職先である中国企業に対しても、当社の営業秘密を使用している、または元従業員から不正に開示を受けたことを知っていた、あるいは重大な過失により知らなかったとはいえない場合には、法的責任を追及できる可能性があります。
もっとも、実務上の難点は、相手方が中国企業であることです。日本で判決を得たとしても、中国国内でその判決を執行することは容易ではありません。また、実際に中国企業が当社のノウハウを使用していることを立証するには、製品の分析、製造工程の類似性、元従業員の職務内容、転職後の開発・量産スケジュールなどの証拠が必要になります。
そのため、現実的には、次のような複線的な対応を検討します。
- 元従業員に対する日本での民事訴訟・刑事告訴
- 中国企業に対する警告書送付
- 中国法に基づく営業秘密侵害・不正競争訴訟の可能性調査
- 中国現地弁護士・調査会社による証拠収集
- 競合製品の購入・分解・性能比較
- 取引先への注意喚起
- 必要に応じた特許・営業秘密・輸出管理の観点からの追加対応
海外企業を相手にする場合、単に日本で訴訟を起こせば解決するとは限りません。刑事告訴による圧力、日本国内での元従業員への責任追及、中国現地での手続を組み合わせる戦略が必要です。
6 競業避止義務違反も確認する
退職時に、元従業員から「退職後一定期間、競合他社に就職しない」「在職中に知り得た技術情報を使用しない」「会社データを返還・削除する」といった誓約書を取得している場合には、競業避止義務違反や秘密保持義務違反も問題になります。
ただし、退職後の競業避止義務は、職業選択の自由を制約するため、無制限に有効となるわけではありません。対象となる職種・地域・期間・代償措置・守るべき企業利益の有無などを踏まえて、有効性が判断されます。
本件では、単に競合企業へ転職しただけでなく、退職直前に大量の製造ノウハウを私用USBへ保存していた点が重要です。このような背信的事情がある場合には、秘密保持義務違反やデータ返還・廃棄義務違反を中心に、競業避止義務違反も併せて主張する余地があります。
7 直ちに行うべき初動対応
本件では、まず証拠保全を最優先にしてください。具体的には、次の資料を確保します。
- 元従業員のPC・貸与端末・社用スマートフォン
- USB接続ログ、ファイルコピー履歴、アクセスログ
- ダウンロードされたファイル名、保存先、日時、容量
- 対象フォルダのアクセス権限設定
- 秘密表示、フォルダ名、ファイル名、管理台帳
- 就業規則、情報管理規程、秘密保持規程
- 入社時・退職時の誓約書
- 退職面談記録、退職理由に関するメール
- 退職後の転職先・職務内容に関する資料
- 競合製品の情報、販売開始時期、仕様類似性
次に、対象情報を分類します。すべての持ち出しデータを一括して「営業秘密」と主張するのではなく、核心的な製造条件、工程設計、図面、品質管理データ、顧客仕様、原価情報など、保護価値が高く、3要件を説明しやすい情報から優先的に整理します。
そのうえで、元従業員に対する警告書、証拠保全手続、仮処分、民事訴訟、刑事告訴の順序を検討します。相手方に不用意に連絡すると、証拠隠滅や中国企業側への情報移転が進む可能性があるため、通知のタイミングは慎重に判断すべきです。
8 再発防止策
営業秘密の流出は、一度起きると完全な回収が極めて困難です。したがって、本件対応と並行して、再発防止策を講じる必要があります。
具体的には、USBメモリ等の外部記録媒体の使用制限、アクセス権限の棚卸し、退職予定者のアクセス制限、異常ダウンロードの検知、ログ監視、秘密情報の分類、秘密表示、クラウド共有の制限、退職時のデータ返還・削除確認、秘密保持誓約書の更新、従業員教育を実施すべきです。
経済産業省も、企業が持つ秘密情報について不正競争防止法上の措置を取るためには、その秘密情報が営業秘密として管理されていることが必要であると説明しています。平時からの管理体制が、万一の流出時に法的措置を取れるかどうかを左右します。
9 まとめ
本件は、元従業員による営業秘密の不正取得・使用・開示として、民事上の差止請求・損害賠償請求、刑事告訴を検討すべき事案です。特に、退職直前に私用USBメモリへ大量の製造ノウハウを保存していた形跡は、重要な証拠になり得ます。
もっとも、法的保護を受けるためには、持ち出された情報が「秘密管理性」「有用性」「非公知性」の3要件を満たす営業秘密である必要があります。中でも、秘密管理性は争点になりやすく、アクセス制限、秘密表示、社内規程、誓約書、ログ管理、従業員への周知が重要です。
直ちに、証拠保全、持ち出しデータの特定、営業秘密該当性の整理、元従業員・転職先への対応方針の検討を進めるべきです。中国企業に対する直接の執行には実務上の難しさがありますが、日本での民事・刑事手続、中国現地での法的措置、競合製品の調査を組み合わせることで、技術使用の停止と被害拡大防止を図ることができます。
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執筆:有森FA法律事務所 代表弁護士有森文昭(詳細プロフィールは、こちら)
(注)2026年3月時点の法令に基づき内容を改定
本記事は2026年3月現在の法令に基づいた一般的な情報の提供を目的としています。個別の事案については、具体的な状況により判断が異なるため、必ず専門家にご相談ください。
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東京大学法学部及び東京大学法科大学院卒。弁護士登録後(東京弁護士会所属)、都内法律事務所で執務。都内法律事務所での執務時に、税関対応・輸出入トラブルをはじめとした通関・貿易に関する問題、労働問題等を中心に100件以上の案件に携わる。その中で、通関・貿易に関する問題についてより広く網羅的な知識を取得し、より高品質なリーガルサービスを提供したいと考え、通関・貿易関係の国家資格である通関士の資格を取得。